文化祭の歴史
文化祭を考える上で、文化祭の歴史を知って損はありません。昔、資料を探して地味な研究をしたものを加筆修正しました。主に先生向けにまとめましたが、高校生でも分かると思います。
【1】戦後に誕生(1948〜1959)
太平洋戦争中は、お国のために尽くすことが大切とされ、創造性を大事にする自主活動はできませんでした。文化祭どころではなかったのです。
1945年(昭和20年)に戦争が終わって、自主活動の制限がなくなり、道具不足はあるもののクラブ活動などができるようになりました。クラブ活動が始まると、その発表の場が望まれるようになりました。戦前からの伝統ある高校(旧制中学)の多くは、昭和23年ごろ文化祭が始まりました。(昭和23年ごろ始まった高校は、文化祭の開催回数は2012年が「第64回」くらいになります。)
当時は、クラス参加はなく、クラブや有志の生徒の発表が中心でした。そして更に、有名文化人を招いての講演会も文化祭で開催されていました。大学が今より圧倒的に少ない時代ですから、高校は地域の最高学府・文化の最先端を担う場所として、地域の人々の知的欲求に応えるという位置づけもあったのです。
今から考えると、水準はさほど高くなかったようですが、「発表したい」「見たい聞きたい」というエネルギーは相当高かったと思われます。
【2】受験競争の激化でクラス参加の出現(1960〜1969)
1960年代になると、受験競争が激化してきました。昭和23年前後のベビーブームで同学年の生徒がすごく多いのに、大学の数はさほど増えなかったのです。大学受験が激化して、四時間睡眠で勉強すれば合格で、五時間寝ると不合格になる「四当五落」とも言われました。今より大学受験が厳しく、今よりも有名大学を卒業したら就職に有利な時代だったのです。
そのため、勉強に力を入れざるをえなくなり、クラブ活動も低迷してきました。それに伴い文化祭も停滞してきました。この現状を変えるため、文化祭でクラスを参加させる高校が増えてきました。全部のクラスが文化祭に参加すれば、全生徒が参加することになり、活性化すると考えたからです。クラス参加で参加団体数が増え、一定の成果はあったようです。
【3】学園紛争で文化祭の危機(1970〜74)
1970年前後に学園紛争が高校にも広がりました。高校での学園紛争とは、「受験競争の激化」「米ソの冷戦」の環境下で、「このまま社会の矛盾を何も考えずに受け身で勉強して、大学受験・就職していいのか」という問題意識のもと、現在の高校のあり方を批判したものです。なかには、生徒が校舎をバリケード封鎖して、機動隊(警官隊)が突入した高校もあります。先生と生徒の関係がギクシャクしてきました。
学園紛争は文化祭に大きな影響を及ぼしました。クラブの発表は、中身が薄くなる傾向があったようです。より大きな影響を受けたのは、出し物が決まっていないクラス参加でした。生物部や美術部なら、衰退しても専門分野の発表が一応できますが、クラス参加では、出し物が退廃的になってしまったのです。中身が真面目な研究発表ではなく、文化的とは言えない飲食店やお化け屋敷になっていきました。それも、徹底的に凝るのではなく、準備に力を入れない「インスタント文化祭」も目立つようになりました。
【4】文化と祭の綱引き(1975〜1986)
学園紛争の影響が少なくなり、文化祭が全体的に上向きになりました。クラブ活動が少し持ち直してきました。クラス参加も「祭りの要素は否定しないが文化的な取り組みも大切」という現実的なバランスを重視した学校が増えてきたのです。伝統校を中心に娯楽的な参加団体は数を制限して、展示や自主制作映画などの文化的な団体を増やそうとする動きが、先生と実行委員会でみられました。
この時代は高校進学率の上昇に伴い、高校の新設が目立ちました。新設校では伝統の積み重ねがなく「文化の芽(?)」を出すのは簡単ではありませんでした。そのような新設校でも、「自分の通う高校で面白いことをしたい」というエネルギーは多くの生徒が持っていました。でも先生は展示をさせたいが、生徒はお化け屋敷をしたくて対立することが頻繁にありました。
このころは、今より文化祭の来場者は多く、準備に力を入れていた傾向にあります。出し物では、今では大きく減っている「自主制作映画」と「展示」が、まだまだ多く選ばれていました。楽しさを重視した出し物では、「お化け屋敷」「もぐらたたき」「迷路」のような今でもある企画はほぼ出そろいました。テレビ番組の影響が大きく、テレビで流行したものを文化祭の出し物に取り入れる傾向も強くなった。
【5】時代の変化(1987〜1993)
日本経済が好調のバブル期のころ、文化祭でも数多くの変化がありました。
(1)高校生は学校に期待しなくなった(脱学校)のです。高校に通いはするけど、高校のクラスで一緒に文化祭したいとは思わないという発想です。楽しいお化け屋敷をするのでも、あまり話したことのないクラスの仲間との話し合いが面倒なのです。仲の良い数人の友達だけで過ごす方が楽しいのです。家に帰れば、この時期に広がったファミコンでゲームに熱中できるなど、娯楽が増えてきたという事情もあります。
(2)いろいろな規制が強化されました。昔から女子校を中心に入場制限はありましたが、この時期に更に強化されました。(実はこのころ高校の文化祭で殺人事件も発生してしまい、近隣の高校は規制せざるをえなくなりました。) また、80年代前半は来場者による写真撮影を規制している高校はごく一部でしたが、撮影規制も急に広まりました。食中毒を防ぐため、文化祭での調理の規制もじわじわと強化されていきました。
(3)文化祭の実践記録や企画紹介が数多く出版されるようになりました。『文化祭企画読本』シリーズ(高文研)や『でっかい物づくりハンドブック』(学事出版)などが出されました。文化祭を盛り上げるための方法が広まったので、文化祭が低迷していた新設校でも、文化祭担当の先生個人の熱意で、一気に盛り上がることが珍しくありませんでした。
(4)受験生が文化祭に行くことが増えてきました。特に大都市の有名私立中高一貫校の文化祭では、中学受験生と保護者で埋まるようになりました。それとともに、今まで多かった他校の生徒が全体的に減っていきました。
【6】長期低迷・学校間格差拡大の時代(1994〜現在)
この約20年間、文化祭は長期低落傾向が続いています。
(1)生徒の意欲と自治能力がますます低下してきました。先生が「お前たち、文化祭でお化け屋敷してもいいんだよ」言っても、「かったるい。やりたくない」という生徒が増えてきました。話し合いをして自分のやりたいことを説明する力、協力して作業する力も低下してきました。当然、文化祭も低迷してきます。 (もっと年上の世代だと、空き地で草野球して自分たちでルール決めてたけど、今だと小さい時からスイミングスクールで大人の指示で活動する時代だから、差が出て仕方ないのだろうけど) 文化祭でも、事務局長タイプはいても、全体をまとめる実行委員長タイプの生徒が、簡単に見つからないのが現状です。
(2)「クラス」「文化祭」に期待しない人が、ますます増えました。携帯電話、メールが普及し、通信手段が格段に良くなりました。昔は、いくら学校外に仲の良い友達がいても、毎日会うクラスの友達の存在が大きかったのです。今は、学校外の仲の良い友達と頻繁に携帯電話とメールで連絡が取れるので、クラスの友達とのつながりが相対的に弱くなってしまうのです。
(3)日曜公開から土曜公開になった地域が急増しました。今までは特に盛り上がっていない普通の県立高でも「土曜非公開・日曜公開」の2日開催が基本でした。これが「金曜非公開・土曜公開」に変更した高校が多数あります。理由の一つは、学校5日制の実施で土曜が休みになり、日曜に文化祭をすると先生の代休を2日とる必要があるからです。日曜の方が多くの人が来れるので、盛り上がりが低下して残念です。
(4)少子化の影響も大きいです。私が住む地域の県立高校では、1988年だと1学年が48人×10クラスで480人いました。今は40人×4〜5クラスで160〜200人と半分以下です。1つの高校で生徒数が3分の1になったら、参加団体数は半分以下、活気も3分の1になってしまいます。
(5)ところが、文化祭が盛り上がっていた進学校は事情が違います。自治能力は低下していると考える人もいますが、小中学校で一応リーダーをしてきた「優秀(?)な生徒」が多いので、話し合いは問題なくできます。もともと文化祭で盛り上がっている高校なら、日曜開催の中止は反対が多くできません。そして受験生が集まる難関進学校は、定員の削減は少しだけで、生徒数の減少もゆるやかです。文化祭の水準が高い一部の高校は、低迷するどころか、演劇を中心にますますハイレベルな文化祭になっているのが現状です。
《参考文献》「月刊ホームルーム」1979年1月号「高校生の意識変化と学園祭の変遷」(大木薫)
「高校文化祭の指導方法に関する一考察」1988年(清水広志)